大分県の郷土料理「きらすまめし」。醤油に漬けた魚の身に何を和える?

大分県の臼杵地方に伝わる郷土料理に「きらすまめし」というものがあります。お刺身をしょうゆに浸したものに、ある食材をまぶしたもので、江戸時代の倹約料理として誕生しました。今回はこちらの郷土料理をご紹介しましょう。

「きらすまめし」って?

「きらすまめし」と聞くと「きらすま+めし」で、ごはんものの料理のように思えますが、そうではありません。地元の方言で「きらす」は「切らず」という意味で切ることのないおからを表し、「まめし」は「まぶしたもの」を意味します。合わせて「きらすまめし」は魚の切り身におからをまぶした郷土料理のことです。

まぐろやブリ、アジなどその時期の旬の魚のお刺身を、しょうゆや三杯酢などの漬けダレに漬け込んだものにおからを合わせ、さらに刻んだねぎやしょうがなどの薬味を入れて混ぜます。仕上げに大分特産のカボスを絞りかければ、できあがりです。おからの味わいと魚に染み込んだほどよいしょうゆの風味に、カボスがアクセントとなってよく合います。

きらすまめしの歴史

江戸時代の中期、たびたび財政難に見舞われることがあった臼杵藩は、厳しい倹約令を出して食べ物や着るものを規制したとされています。そんな中で、生み出されたのが「きらすまめし」。残り物である刺身や魚をおろしたあとの中落ちなどを、大豆の搾りカスのおからをまぶしてかさ増しをしました。倹約料理ですが、栄養豊富なこともあり庶民に受け入れられ、現在でも家庭料理としても作られ、親しまれています。

里山に残る国宝「臼杵石仏(うすきせきぶつ)」

きらすまめしが食べられている大分県臼杵市は臼杵石仏が有名で、中心部から少し離れた里山に、60体以上の石仏(磨崖仏)があります。石仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていませんが、地元に伝わる伝説によれば、有力者が亡くなった娘の菩提を弔うために彫らせたといわれ、仏像の様式などから平安時代後期から鎌倉時代に都の仏師によって彫られたとされています。

磨崖仏の規模と数の多さ、また彫刻の質の高さにおいて日本を代表する石仏群であり、平成7年(1995年)に磨崖仏としては全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されました。石仏群は「崖」を意味する「ホキ」という名が付いたホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、古園(ふるぞの)石仏の4つに分かれています。

平安時代から鎌倉期に至るまでの磨崖仏が20数体並んだホキ石仏第一群は、まさに壮観と言えます。「地蔵十王像」は地蔵菩薩の左右に十王像が並んでおり、まるで木彫りの像ではないかと思えるほど鮮やかな彩色が施されています。

ホキ石仏第二群は、石仏を安置させる場所である「龕(がん)」が2か所あり、第1龕には阿弥陀三尊像が掘り出されています。木彫りのような彫りで、穏やかな表情をしていています。その堂々とした軀体、中尊と両脇侍のそれぞれも異なった豊かな表情をしており、すべて素晴らしい石仏です。

山王山石仏は、樹木に囲まれてひっそりとたたずむ、小さな石仏群です。仏像のお顔は輪郭が丸く、目鼻はこじんまりとして邪気のない純真無垢な童顔をされていて、「隠れ地蔵」とも呼ばれています。

臼杵石仏群の最後に「古園(ふるぞの)石仏群」があります。大日如来像を中心とする臼杵石仏の中心的存在であり、「古園十三仏」や「大日山石仏」とも呼ばれています。特に平安後期に造られたとされる大日如来像は日本の石仏の中でも最高傑作の一つとされ、崩壊破損がひどかったのですが、中尊大日如来の仏頭が復位されたことによって、昔の荘厳な姿に復旧されました。

ザ・ご当地検定の問題

Q. 大分県の郷土料理「きらすまめし」。醤油に漬けた魚の身に何を和える?

A. おから