ちゃんぽんチェーン店の『リンガーハット』の名前の由来となった「フレデリック・リンガー」はどこの国の人?

長崎ちゃんぽんや皿うどんで有名なリンガーハット。もちろん発祥の地は長崎ですが、この「リンガーハット」という名前、「フレデリック・リンガー」さんという人の名前が元になっている事をご存じでしたか?その「フレデリック・リンガー」さん、どのような人物だったのでしょうか?

イギリスから中国、そして長崎へ

フレデリック・リンガーは、イギリスのノーフォークに生まれました。
後に中国へ渡り、1863年に兄ジョンと共に中国の広東にある英国系商社に勤務していたリンガーは、ここでトーマス・グラバーと出会います。そしてグラバーの強い要請を受けて日本の長崎へ渡ることになりました。

グラバー商会では商会の幹部として活躍しますが、後年顧客とのトラブルが原因でグラバー商会が倒産してしまいます。しかしこれを機にリンガーはグラバー商会の業務の全てを引継ぐ形で自らの会社ホームリンガー商会を設立します。
事業は順調に拡大し、キング・オブ・ナガサキといわれるほどの大実業家なりました。

晩年は健康上の理由で、事業をグラバーの息子の倉場富三郎と二人の息子に任せて、故郷のイングラインドへ帰国するのですが、その帰路の途中で亡くなってしまいます。


後年イギリスと日本の関係が悪化すると、リンガー商会は外資系商社という理由から閉鎖されてしまいます。
しかし終戦後には、北九州にあった支店が復活し、現在も小倉でホームリンガー商会の社名で営業を続けています。

長崎の経済発展に貢献

リンガーは、長崎と日本の経済発展に多大な貢献をしたといわれています。長年の間に設立した企業は、機械化された製粉所、蒸気洗濯所、石油の備蓄場、港湾荷役、トロール漁業、近代捕鯨など多岐にわたります。1890年代末まで、長崎は日清戦争、米西戦争、あるいはロシア艦隊の回航により活況に沸き、リンガーは当地の外国人商人の中で支配的な地位を築いた。日刊英字新聞「ナガサキ・プレス」(Nagasaki Press)を創刊したことやと当時アジアの一流ホテルとして名を馳せた長崎ホテルなどがあります。

1860年代後半には、南山手2番地の山腹に天草産の砂石で、バンガロー風邸宅を造り、その家で家族と生活を共にしました。

リンガー一家が暮らしていた旧宅は、1966年に国の重要文化財に指定され、他の2人の英国人の旧宅(グラバー邸・オルト邸)とともに、グラバー園に保存されています。

今も残る旧リンガー住宅

旧リンガー住宅は長崎の有名な観光地「グラバー園」にあります。

グラバー園には全部で9棟ありますが、そのうち、旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧リンガー住宅は居留地時代に建築され、150年以上この地に建ち続けいる貴重な建物です。

フレデリック・リンガー一家が明治時代から昭和時代にかけて住んでいた旧リンガー住宅は、1966年6月11日、国の重要文化財に指定されています。

明治初期の居留地建築の代表的な外観で、日本に例の少ない石造りの洋風住宅、重厚な中に優美さが漂っているのが特色です。

三方をベランダで囲まれていますが、その床石には、ウラジオストックから運んだ御影石が使われています。
邸内にはリンガー率いる投資家グループにより明治30年に建てられた「ナガサキホテル」(ジョサイア・コンドル設計)のカトラリー(NHLの刻印が付いたナイフ、フォーク、スプーン)のセットが展示されています。
これは、平成25年6月、改装中の奈良ホテルで奇跡的に発見され、1セットが長崎市に寄贈されたもの。
ナガサキホテルの閉館(明治41年/日露戦争後に貿易の中心が神戸、横浜両港に移り閉館)直後に奈良ホテルが開業(明治42年)で、金銀食器1600点が移管されたと推測できます。

当住宅の設計者は不明ですが、隣家のオルト住宅と様式手法が似ることから、同住宅と同様、天草の小山秀之進が施工した可能性があるとされています。


夜間にはライトアップを実施しているそうなので、一度見学にいってみては。

ザ・ご当地検定の問題

Q. ちゃんぽんチェーン店の『リンガーハット』の名前の由来となった「フレデリック・リンガー」はどこの国の人?

A. イギリス