滋賀県長浜市の名物麺料理とは?

江戸時代以前の日本の首都は京都だったため、全国から様々な特産品が貿易品として集まっていた歴史があります。その歴史によって現在にまで継承されている色々な名物が誕生したのですが、今回は滋賀県長浜市名物の麺料理を紹介します。

焼きと書かれているけど甘辛く煮たさばで作るそうめん

滋賀県長浜市名物の「焼きさばそうめん」は、名前だけを見てしまうと焼いたサバを乗せただけのそうめんと思ってしまうところですが、実物は全く違います。どんなそうめんなのかというと、焼いたさばを醤油と酒そして砂糖で濃いめに作ったタレに入れて煮ます。そして焼いたさばにタレが染み込んだら煮崩れをする前に取り出して、サバのうまみが入り込んだ醤油ダレに事前に茹でて置いたそうめんを絡めるのです。そして大きな器にタレを絡めたそうめんを盛りつけた後に、焼いた後に煮たさばを乗せて最後にしょうがの千切りやネギの細切りを乗せて出来上がりです。

なぜ焼きさばそうめんが生まれたのか

焼きさばそうめんが生まれた背景は、滋賀県が江戸時代以前ではどんな場所だったのか知ることで理解できます。滋賀県は本州の中央に位置する内陸部であり、北は福井県、東は岐阜県、南は三重県、そして西は京都府が隣接しています。江戸時代以前の日本の首都は京都であり、天皇家や天皇と関係する上流階級が政治の中心を司っていたのです。戦国武将や大名が集中しすぎることで偶発的に起きてしまった応仁の乱により、政の中心に覇権争いをする者たちが集うと高い確率で争いが起きる事を理解したことで各地に離散することが決定します。

室町時代の末期になると織田信長が東海地区の大名を次々と打倒していき、京都への直通ルートを確保するために岐阜県に隣接していた近江の国に目を付けます。近江の国は中央に川魚が収穫できる大きな湖があるだけでなく、標高の高い山がそびえ立っていたために建物の建築材料となる木材が大量に茂っており、城を構えるには最高の立地条件だったのです。しかし最高の場所というのは他の大名にとっても有益な場所のため、近江の国は長年覇権争いに巻き込まれていました。そのため、誰も手が出せない飽和状態になっていたのです。しかし織田信長は強い軍勢を基に進軍し、その近江の国にいるすべての大名を従わない物は討つ、もしくは力でねじ伏せて自軍に引き入れることで平定したのです。平定した後は、その京都への直通ルートを確保するために、愛知や静岡そして三重から土木業者を雇入れてインフラ整備をすることで住民が住める環境づくりが進められます。

安土桃山時代の中期に入ると関東そして中部地区から京都への直通ルートは整備が完了し、織田信長の意向通りに住民が住める場所の確保が完了します。織田信長が天下統一を果たす寸前で本能寺の変で討たれた後は、その後を継いだ豊臣秀吉によって住民が住める場所というだけでなく地理条件を生かして京都への貿易拠点として用いることを決定します。この織田信長の後を継いだ秀吉の行動が、滋賀県長浜市名物焼きさばそうめんを生み出すことになるのです。

天下統一を果たすため行動を開始した秀吉は、京都とその周辺にいる大名に自分の威光を知らしめる為に滋賀県で曳山祭りという祭りを開催したのです。この時に北の福井県から塩漬けにして運ばれてきたさばが運ばれてきたのですが、そのまま焼いたのでは芸がないと別の調理法を考案することを進言します。このときに揖保川で作られていたそうめんを利用することを思いつき、焼いたさばをしょうゆダレと一緒にそうめんをふるまったのです。食べてみたところ脂の乗ったさばと旨みが染み込んだタレを絡めたそうめんがおいしかったので、滋賀県長浜市名物の焼きさばそうめんが生まれたというわけです。

郷土料理には土地の歴史が詰まっている

焼きさばそうめんが出来た背景には滋賀県が京都の隣にあったことが関係しています。焼きさばそうめんのような各地に点在する郷土料理の多くは、その土地の歴史が詰まっています。

ザ・ご当地検定の問題

Q. 滋賀県長浜市の麺料理「○○そうめん」。○○に入るのは?

A.焼きさば