福井県の名物ラーメン「敦賀ラーメン」ってどんな味?

今回は福井県の名物「敦賀ラーメン」をご紹介します。多くの人に愛されている敦賀ラーメンとはいったいどんな味なのでしょうか。敦賀ラーメンの歴史と、そんな敦賀ラーメンができた場所である敦賀市についても合わせてチェックしましょう。

敦賀ラーメンとは?

敦賀ラーメンの発祥地は名前にもなっている通り、福井県敦賀市です。お店によって多少異なりますが、醤油のスープが敦賀ラーメンの一番の特徴です。さらに、お店によってあっさりとしていて食べやすかったり、こってりとしていたりするので、敦賀ラーメンは食べ比べが楽しいラーメンとなっています。そんな敦賀ラーメンは、もともとは屋台が提供するラーメンとして誕生しました。1953年に敦賀に初のラーメン屋台ができたことをきっかけにして、その周辺に続々と屋台が増えました。

最初は敦賀ラーメンという名前はなく、「中華そば」という名前で地元の方々に親しまれていました。当時、敦賀ラーメンをよく食べていたのは敦賀駅を利用するお客さんや駅を運営する旧国鉄職員たちです。この人たちが敦賀ラーメンの発展に貢献したといっても過言ではないでしょう。さらに1960年代後半からは屋台だけではなく中華料理店ができ、ラーメンを食べる文化がますます多くの人に広まりました。そのほかにも様々なことがあり、現在の敦賀ラーメンが誕生しました。

ちなみに敦賀ラーメンは、北陸で初めて新横浜ラーメン博物館に出店したことで有名です。そして、このことがきっかけとなり、敦賀ラーメンの名は全国にとどろくこととなりました。

敦賀ラーメンをお店で食べるときに注意しなければならないこと

敦賀ラーメンのお店の中には、営業時間が夜のみになっている場合があります。これは、屋台ラーメンとして夜にお店を構えていた名残です。そして、今でも屋台として敦賀ラーメンを提供しているお店は夜のみの営業になっている傾向が強いです。口コミで評価の高いお店でも必ず昼の営業を行っているとは限らないので、行く前に一度営業時間の確認をすることをお勧めします。

敦賀市について知ろう

福井県敦賀市が栄えたきっかけとなったのは鉄道と海です。鉄道は敦賀ラーメンの発展に大きく貢献したものでもありますが、実は敦賀市の発展にも大きく貢献しました。敦賀は古代は朝鮮半島や中国大陸との窓口として、外交に欠かせない場所でした。そして、江戸時代には関西と北海道の交易を行う重要な拠点として発展をします。鉄道が開通したのは1884年で、この年からは船だけではなく鉄道を用いた輸送の拠点として栄えましたが、鉄道が富山までつながったことで船による輸送が徐々に衰退していきました。このままでは港は活気を失い、危機に陥ってしまうと感じ、立ち上がったのは大和田荘七です。

大和田荘七は、港に活気を取り戻すため、国内の交易の拠点としてではなく国際貿易港として外交の窓口とするように懸命に政府に訴えました。そしてそれが実を結び、敦賀港は政府から開港場の指定を受けることになりました。しかし、国際貿易港であり続けるためには一定の貿易額が必要になります。そこで大和田は自ら貿易会社を作り、中国から輸入を行う事で敦賀港存続に貢献しました。こうして敦賀は貿易の拠点として発展し現在に至るのです。そのため、今の敦賀を作ったのは大和田荘七といっても過言ではありません。

ちなみに敦賀は外国人を受け入れたことでも有名です。1920年にはポーランド人の孤児を救うため合わせて765人の子供が敦賀に上陸しています。また、1940年から1941年にかけては約6000人のユダヤ人難民が上陸しています。この話は「命のビザ」という名前で有名です。

歴史のある敦賀ラーメン

敦賀ラーメンは歴史が長く、地域の人々にとても愛されている食べ物です。そして、敦賀市にもさまざまな歴史があります。敦賀市に行った時は敦賀ラーメンを食べ、その味を感じてください。市の魅力にも気づくことができるでしょう。

ザ・ご当地検定の問題

Q. 福井県のラーメン「敦賀ラーメン」といえば、次のうちどれ?

A.醤油ラーメン

Q. 敦賀港の国際貿易港指定などに尽力した、福井県敦賀市にゆかりのある人物は?

A. 大和田荘七