今回は東京で創業された、元祖醤油ラーメンの店として知られているお店を紹介します。どのように誕生して、どんな醤油ラーメンを提供していたのでしょうか。また、浅草とはどのような場所なのでしょうか。
来々軒の醤油ラーメン
東京都浅草で来々軒が誕生したのは、明治43年の事でした。店主である尾崎貫一さんは、横浜税関に勤めていましたが、退職後に中華そばを販売する事にしました。仕事でチャイナタウンを訪れる事も多かった尾崎さんは、横浜中華街から広東省出身の中国人を呼び、浅草公園に来々軒を開店しました。ですがラーメン(当時は中華そばと呼ばれていた)の味は、なかなか人々に受け入れてはもらえませんでした。当時のラーメンは、トンコツベースだった為、その臭みから嫌煙される事が多かったのです。そこで、日本人の口に合うようにと考案されたのが醤油ラーメンでした
日本人に馴染み深い調味料である醤油を使い、トンコツベースに鶏ガラと合わせる事により、あっさりとしつつコクがあるスープは、すぐに人気メニューとなりました。
浅草で開業した来々軒は、第二次世界大戦後には東京都八重洲に移転しました。ですが、3代目の当主に跡継ぎはなく、平成6年に閉店となりました。醤油ラーメンが誕生した背景には、 少しでも日本人の口に合うようにという、初代店主の尾崎貫一さんの真心が込められているのです。日本でこれだけラーメンが食べられ、国民食となったのは、そうした努力の賜物なのです。
浅草の歴史
元祖醤油ラーメンの店である来々軒が開業した浅草とは、どういう所なのでしょうか。その歴史はとても古く、江戸時代には繁華街として栄えました。なぜ浅草が繁華街として発展したのかという、その理由は米蔵が設置された事と関係があります。米蔵が出来た事で、米蔵を警護する役人や、米の仲介人である札差が浅草に集まり、次第にその生活は華やかなものへとなりました。芝居小屋なども建てられ、舟遊びなどで豪遊するようになり、賑やかさはどんどん増していきました。
明治時代に入り、東京市の15区に浅草の名前が採用されました。そして、浅草寺を中心として公園化され、浅草公園は都市公園の一つとして誕生しました。そして、浅草公園地区で賑わいを見せていた繁華街を浅草公園六区と呼ぶようになりました。戦後、松竹歌劇団の本拠地となり、映画館などが大盛況でした。浅草は、江戸時代から人々の娯楽の場として栄えてきました。浅草には、かつてはすしや横丁と呼ばれていた「すしや通り商店街」があり、飲食店が建ち並んでいます。下町の風情を感じさせる商店街を歩きながら、賑やかだった江戸時代を思い描くのも楽しいものです。
浅草が元祖のグルメはまだあった
東京都来々軒は、元祖醤油ラーメンの店として有名ですが、実は浅草にはまだまだ元祖と言われるグルメが存在します。ねぎとろ巻きは、金太楼鮨の店主が考案したとされています。店主の妻がネギを好物としていた事から、いつもネギが置かれていました。ある時、店主が賄いにと、スプーンでマグロの骨や皮についた身をすくっていました。その時にネギを乗せて食べた事から始まりました。偶然から生まれたねぎとろは、すぐに人気メニューとなりました。
そして、カツカレーも浅草が元祖といわれています。老舗とんかつ屋である河金の店主は、当時はまだ珍しかった洋食が流行るであろうと考えました。コロッケやカツレツ、カレーライスと洋食メニューを次々と出しました。そんなある日、河金に一人の客が訪れました。せっかちなその客はとんかつの上にカレーをかけてくれと言いました。その理由は、手っとり早く食べれるからというものでした。まさに下町ならではの発想で誕生したグルメなのです。
東京都の来々軒は、元祖醤油ラーメンのお店
東京都の来々軒は、元祖醤油ラーメンの店として歴史にその名を残す店です。こうしてラーメンが国民食となり、愛され続けてきたのも、来々軒が醤油ラーメンを販売した事がキッカケでした。浅草の歴史とグルメに触れる旅に出かけてみるのもおすすめです。