「利賀そば」の産地として、そば通に「聖地」とも言われている「利賀」とは、どこにある地名?

わんこそばと戸隠そば、出雲そばを日本三大そばと言ったり、そばの名産地は北海道だったりしますが、日本には「そばの聖地」と呼ばれる場所があります。今回は、そば祭りの歴史や聖地と呼ばれる所以などを紹介していきます。

過疎地が見習いたい地域おこし成功例が利賀村にあった

富山県南砺市利賀村の郷土料理である利賀そばは、元々地元で収穫されたそば粉をつなぎなしで作っていました。そばの風味そのものを味わえるのが魅力である反面、切れやすかったり、ぼそぼそとした食感が食べにくかったりするというのがやや問題でした。そこで現代の利賀村の各そば屋では、小麦などのつなぎを使用して作っています。

利賀そばを食べられる上にそばの知識が得られる場所として有名なのが、「利賀そばの郷」という日本初のそば資料館です。こちらでは世界中で栽培されているそばの種子の展示や、そばの製粉からそば打ちまでの工程を説明したパネル展示などが見られます。別の施設では、そばの種子を石臼から挽くところから始めるそば打ち体験が可能です。館内には食事処「そばの館」も用意されており、「利賀そば紀行」という毎月内容が変わるフルコースがそば通に人気です。「そばの館」以外にも、周辺にはそば屋が集まっています。手打ちそばはもちろん、無国籍風にアレンジしたそば料理が味わえる店もあるので、日本そば以外の味付けを試してみたい人も満足できるでしょう。

一昔前まで、利賀村での主食はあわやひえ、そばなどでした。それが戦後になって米が沢山栽培できるようになると、そばを含めた雑穀の栽培量は減っていき、お米が主食になっていきます。それでも利賀村の各集落ではご近所さんが集い、そば粉を持ち寄って料理を作るそば会「ごんべ」が定期的に行われていました。これは外の町に出稼ぎに行っていた人が帰ってきたときや、遠方からの来客をもてなすときなどに催され、手打ちそばや村で取れた山菜や野菜などを使った料理が出されていました。ある集落では雪まつりを行うほどの規模だったと言われています。

この「ごんべ」に着目して村おこしに活用したのは、財団法人利賀ふるさと財団の前理事長である中谷信一さんです。中谷さんは当時、利賀村の職員でした。1976年に小劇場の主宰が活動拠点を東京から利賀村に移し、毎年村で公演を行うことにしました。1982年に行った「利賀フェスティバル’82~第1回世界演劇祭in富山」では世界中から演劇人が集まり演劇が披露されます。観光客は13000人も訪れ、フェスティバルの様子が世界にテレビ放送されました。

これは利賀村にとって歴史に残るイベントです。演劇祭を担当した中谷さんは、利賀村からでも世界に発信できるということを実感。世界に発信すると同時に、長い冬に村を元気にできることを行えないかと考え出し「ごんべ」に着目したというわけです。村役場の会議で発案した当初は心配する声が多く、話は頓挫しそうでしたが、説得を重ね、雪まつりとそばを組み合わせた「利賀そば祭り」の開催にこぎつけます。

1985年2月に催された第1回に訪れた観光客は、なんと5000人にもなりました。道路脇の雪に穴を掘ってキャンドルを灯し、村民総出で作り上げた雪像はライトアップしてと、幻想的な雰囲気を作ったのが功を奏したのかもしれません。このとき用意したそばも瞬く間に売り切れるほどの好評ぶりでした。大成功に終わったお祭りに、村人全員が自信を付けます。2019年2月に開催した第15回では、3日間で2万人もの来場者を記録、すっかり村の定番イベントになっています。

「利賀そば祭り」以外でも、1992年に世界そば博覧会を行ったり、そば原産国と言われるネパール王国ツクチェ村と交流したりと、様々な取り組みを展開中です。中谷さんは全国麺類文化地域間交流推進協議会を立ち上げ独自に素人そば打ち段位認定制度を創設、手打ちそばの文化を広げています。手打ちそばを趣味とする人がじわりと増えていく内に利賀村は全国的に有名になり、いつしかそば通にとっての聖地とまで言われるようになりました。

厳寒期に食べる利賀そばは一段と美味

利賀そば祭りの開催は厳寒期ですが、その中で食べる温かいそばは一段と美味しいです。例年花火が上がるので夜に訪れるとより満喫できるかもしれません。夏場に訪れるのもまた違った良さが感じられます。大自然に身を置くと、日頃のストレスが吹き飛びますよ。

ザ・ご当地検定の問題

Q. 「利賀そば」の産地として、そば通に「聖地」とも言われている「利賀」とは、どこにある地名?

A.富山県