新潟市の『田舎家(いなかや)』が考案したとされている郷土料理とは?

新潟県の郷土料理をご紹介します。最近は県外でも新潟の料理を食べられるお店が増えたことにより、知名度が上がっているようです。いったいどんな郷土料理なのでしょうか。

伝統工芸品に入った料理

わっぱ飯の「わっぱ」は、漢字で「框」と書きます。これを「かまち」と読むなら、障子などの枠のことですね。「上がりかまち」という名前は暮らしに身近かもしれません。上がりかまちは、玄関などの段差の角の部分を覆うように取り付けた化粧材のこと。これも広い意味で見れば枠の一種です。つまり「框」は、文字自体の意味では「枠」のこと。そして「わっぱ(輪っぱ)」は、薄い板を輪のように曲げて、端を留めた入れ物のことです。

「曲げわっぱ」の名で知られるわっぱは、日本各地で作られてきた伝統工芸品です。軽くて持ち運びやすいこと、木材がご飯の水分を吸って中身が傷みにくいことなどから、弁当箱や米びつとして親しまれてきました。では、わっぱ飯とは、日本各地で食べられてきた料理なのでしょうか?そういう面もあります。実際、東北地方や東海地方などでも、わっぱ飯と呼ばれる料理は出されています。しかし実は新潟県には、新潟県オリジナルのわっぱ飯があります。その「新潟県のわっぱ飯」は、実は比較的新しい時代に生まれた郷土料理なのです。

わっぱ飯の元祖、田舎家

今日よく知られる新潟県のわっぱ飯を考案したのは、新潟県新潟市・古町の料理店「田舎家」の初代店主です。昭和27年(1952年)に初代店主が生み出したわっぱ飯が、美食家として知られる北大路魯山人からのアドバイスを受けて、現在のわっぱ飯の形になったと伝えられています。初代店主は元来東京で料理人としての修業を積んでおり、北大路魯山人とはその時に親交を結びました。

魯山人は、東京で知り合った料理人が新潟に戻ってから出した店に、わざわざ訪れて助言したわけです。魯山人がさまざまな土地を旅して美食を極めたことは有名ですが、このように料理人との付き合いも良い面がありました。現代のように情報がすぐに伝わるわけではない時代、わざわざ足を運び、旧知の人と深くコミュニケーションをとることも、魯山人の舌を養ってきた大事な部分だったのでしょう。

田舎家のわっぱ飯はその後、新潟を中心に各地に広がりました。わっぱ飯と呼ばれる料理は必ずしもひとつだけではありませんが、北大路魯山人が監修したわっぱ飯は、田舎家のものだけです。このため、新潟のわっぱ飯は、少し特別なのです。

わっぱ飯の味わい

曲げわっぱは弁当箱としてよく使われてきたと書きました。わっぱ飯も行楽弁当のようなものなのでしょうか?いえ、東京で修行してきた料理人がわざわざ自分の店で出すだけあって、元祖・わっぱ飯はかなり本格的なメニューです。自然と、その流れを汲んで生まれたわっぱ飯も、机を前に椅子に座って食べるような、「お店の料理」になっています。

わっぱ飯はその名の通り、曲げわっぱの器に入っています。そこにこんぶとカツオのだしでこっくりと炊かれたご飯が詰められ、よく脂ののったサケやぴかぴかと粒の光るイクラ、味の染みたやわらかな鶏といったおかずがのっています。ご飯とおかずはわっぱの中で蒸されていて、フタを開けると、杉の香りとだしの香り、具材の香りが絡み合った湯気がふわっと立ち上ります。木製の器に入っている釜飯をイメージすると、かなり近いものになるでしょう。

もともとの田舎家のわっぱ飯は、ブイヨンなどを使った、もう少し豪華な味わいのものでした。魯山人はこれが日々の食事としてトゥーマッチであると指摘し、現在のだしを使った日本風の味つけになったということです。魯山人のアドバイスもあってか、わっぱ飯は人々の口に快く受け止められ、愛され続けて現在に至っています。

新潟旅行ではぜひわっぱ飯を

新潟県に起源を持つ、田舎家のわっぱ飯。気鋭の料理人の技と美食家の知恵が絡み合って生まれたその郷土料理は、日々の食事でありながら旬の味と熟練の技に支えられた、新潟県ならではの美味です。新潟を訪れる機会があったら、ぜひ食べてみたいものですね。

ザ・ご当地検定の問題

Q. 新潟市の『田舎家(いなかや)』が考案したとされている郷土料理は?

A.わっぱ飯