長崎土産としても人気の高い「カステラ」。一体、どこの国から伝わったお菓子なのでしょうか?
「カステラ」はポルトガルの宣教師から長崎に伝わった!
長崎銘菓と言えばまず浮かぶのがカステラです。たっぷりの卵を使った黄色いふわふわのスポンジ、表面の茶色いしっかりとした焼き色、底のざら目、厚みのある切り口・・・しっとりとした中に甘さがギューっと詰まった、上品な長方形のケーキ。
贈答品やお土産にも人気で「カステラを嫌いな人はいない」という風潮もあるほど、贈る側も贈られる側も幸せになれるお菓子です。
そんなカステラですが、「南蛮菓子」と銘打って売られている商品も多いことから、海外から入ってきたケーキ…ということはなんとなく想像がつきますが、どこの国から、誰が広めたのかご存じでしょうか。
実はカステラは安土桃山時代の鉄砲伝来と同じ頃、ポルトガルの宣教師から日本に伝わりました。当時は、病人治療の為の栄養剤という意味を持って、医療とともに伝来したと言われています。
しかし、数十年後には一般に広まり、茶席の菓子などとして長崎・九州だけではなく、関西や江戸にまで広がる大流行を起こしたとの事です。
カスティーリャ王国のパンから「カステラ」に!
種子島にポルトガル人が漂着し、日本とポルトガルとの交流が始まるのは1543年。鉄砲が伝来した6年後には、今度はキリスト教の宣教のためフランシスコ・ザビエルをはじめとしたポルトガルの宣教師達がやってきます。
この時に南蛮菓子がいくつも日本に入ってきたようです。宣教師達は鹿児島だけでなく、長崎の平戸などにもやってきました。そしてキリスト教や医療、そしていくつもの南蛮文化が伝えられました。
南蛮菓子でいうと、ボーロやコンペイトウは現物自体が渡来したようですが、ビスケットやパンは作り方を宣教師が広めたとの事です。
カステラの語源は、かつてのカスティーリャ王国(イベリア半島の東岸中央から北部)という意味のCastellaというポルトガル語で、カスティーリャ王国のパンとして製造方法が伝えられたようです。当時はさっくりとしたパウンドケーキのようなもので、今のカステラのイメージとは違うものだったようです。
先述の通り、医療用で作られていた「カスティーリャ王国のパン」こと「Castella」は、栄養剤として牛乳や蜂蜜が使われていたそうですが、一般に広まる頃には、小麦粉、鶏卵、白砂糖のみで簡単に作られていたようで、その頃には「かすていら」と呼ばれ、角寺鐵異老・家主貞良・加須底羅とさまざまな漢字を充てられるほど人気になりました。
またそこから歴史を重ね、明治時代以降の西日本で、今の長崎カステラの特徴である水飴が使用されるようになり、現在のしっとりとした食感となりました。
そして伝来より400年の長い時の中で、日本人独特の製菓感覚と技術、さまざまな企業努力を重ねて、現在のカステラの形になったのです。
長崎でも全国でも!幸せになれる和菓子・カステラ!
ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元に日本で独自に開発・発展させていった和菓子のカステラ。元はパウンドケーキやパンに近いはずなのに洋菓子ではなく和菓子のジャンルに分けられているのには、日本での工夫と創作の歴史がありました。
そして現在、長崎でカステラを製造・販売するメーカーは40社を超えているそう。全国展開をしているメーカーも多く、日本全国の百貨店やスーパーでも長崎銘菓のカステラが購入できます。
口の中で幸せな甘さが踊る「カステラ」。長方形のいわゆる贈答用のタイプだけではなく、一切れずつや小分けのタイプなど、ちょっとした自分へのご褒美などにも手頃なものもあり、身近なおやつになりました。
またチョコレート味やチーズ味や抹茶味など、メーカーによって味もバラエティー豊かです。
もちろん、こだわりをもって長崎だけでしか手に入らないカステラや、地元の人に人気のメーカーなどもありますので、長崎旅行の際には、飲み物片手にカステラの食べ比べも楽しいですよ。
ザ・ご当地検定の問題
Q.長崎の銘菓「カステラ」は、元々どこの国から伝来した?
A.ポルトガル