日本最大の規模を誇る中華街としてたくさんの観光客が訪れる観光名所をご紹介します。その歴史は古く、毎年中国に起源がある祭りも多数開催されています。ここではそんな中華街について、詳しく紹介していきます。
長い歴史のはじまり!横浜中華街の原型って?
横浜中華街が生まれた理由には、横浜港の開港が大きく関わっています。横浜港は幕末の1858年に日本とアメリカの間で結ばれた日米修好通商条約に基づいて開港された港であり、1859年に開港して以降、大勢の西洋人が日本人と筆談で交渉できる中国人を連れて訪れるようになります。彼らは外国人居留地に商館を設置して日本人と取引をするようになるのですが、当時西洋人と日本人は互いの言語や商売について詳しい知識を持っていなかったため、西洋の言葉と東洋の漢字を駆使できる中国人が貿易の仲立ちを担うようになりました。
開港当初は広東出身の横浜華僑(華僑とは海外へ移住した中国人のこと)が多かったのですが、後に横浜と上海の定期航路や、横浜と香港との定期航路が就航されるようになると、洋裁などの技術を習得した中国人や、北海道産の中華食材を香港などに輸出する人、台湾の砂糖を日本に持ち込む貿易商などの数も増えていきました。また、横浜中華街には日本人の居住者も大勢おり、西洋の建築技術やピアノの製造方法、印刷に関する知識を身につけた華僑と交流することで、日本にたくさんの新しい情報が伝えられることになりました。明治時代に入ると横浜に滞在する華僑は約1000人ほどになっていたといわれ、関帝廟という中国の武将を祀る廟なども設置されはじめて、中華街の原型が出来上がっていきます。
日清戦争から日中戦争…そして戦後へ
1894年に日清戦争が起きると帰国する華僑が多くなりますが、戦争が終わると街に賑わいが戻り、中国の革命家が亡命してくるなど、歴史的な出来事の舞台にもなりました。1899年に居留地が廃止されたことで外国人への職業制限や労働に規制が設けられると、居留地の外で店を経営する人が増えていき、中国人商業会議所といった団体も設置されて、華僑の人口はますます増加していきます。しかし、大正時代の1923年9月1日に発生した関東大震災により、レンガ造りの家屋が立ち並んでいた街は大きな被害を受けることになり、震災から生き残った人々は横浜を離れて蘇州などの故郷へ帰っていきました。こうして一時は人口が減ってしまったのですが、1930年代に街が復興すると少しずつ戻ってくる人も増えて、料理店や理髪店なども営業をはじめるようになりました。
1937年に日中戦争が勃発した際も帰国する人が多かったのですが、その一方で横浜に留まる人もいました。残ることを選んだ華僑の暮らしは少しずつ厳しいものになっていき、1945年の大空襲によってに中華街も被害を被ります。戦後、横浜港は香港から持ってきた食品を日本の食品と交換する船などの出入りで賑わい、その船員や進駐軍が利用するバーも作られました。1955年になると銘板に「中華街」と記された牌楼門が大通りの入口に建てられ、それまで南京街や唐人街と呼ばれていたこの街は、徐々に中華街という名で親しまれるようになります。牌楼門は1989年に新しい姿に生まれ変わり、名前も善隣門に変更されました。
1960年代に入ると横浜周辺の開発も進み、中華街もさらに活気に満ちていきます。1972年には日中国交正常化という日本と中国の共同声明が発表され、中華街もブームにのった観光客で賑わいました。こうして神奈川県横浜市にある横浜中華街は日本最大の規模を誇る中華街へと発展を遂げていき、中国の文化を体感できる場所として様々な人に愛される観光名所になります。旧暦の正月を祝う「春節」という祭りや、神様の誕生日を祝う「関帝誕」などのお祭りも毎年開催されており、地元の人や観光客が一緒に楽しめるイベントとなっています。
魅力がいっぱい!横浜中華街へ行ってみよう!
横浜中華街は日本にいながら気軽に中国の文化に触れられる場所であり、独自の魅力を持っている地域でもあります。美味しい中華料理を食べたい時や、中国の食材や雑貨を探したいなら、横浜中華街を訪れてみるのがおすすめです。
ザ・ご当地検定の問題
Q. 日本最大の中華街があることで知られる政令指定都市は?
A.横浜