「江戸前寿司」の考案者とされる、江戸時代の料理人とは?

東京都では本格的な江戸前寿司を楽しめます。この江戸前寿司は、江戸時代に考案されたと言われています。では、どのようにして江戸前寿司は誕生したのでしょうか。また、誰が考案したのでしょうか。

江戸前寿司の歴史

そもそも「すし」が日本に伝わったのは平安時代だとされています。そして、それが寿司と呼ばれるようになったのは江戸時代だと言われているのです。それまでは寿司に酢が使われていなかったのですが、生魚を腐らせないために酢が使われるようになりました。保存方法が進歩したことによって生魚を長持ちさせることができるようになり、百万人が住むと言われていた大都市江戸で屋台の寿司店が多くみられるようになったのです。このような中で、江戸の前の海、つまり東京湾で漁獲した海産物を使用した江戸前寿司が華屋与兵衛によって考案されます。与兵衛がこれを考案する以前にも「箱ずし」という箱と笹の葉を使った寿司はありましたが、様々な手間がかかり魚の旨味も抜けてしまうために寿司の改良を考えました。

与兵衛は寿司を新鮮なうちに客に食べてもらいたいと考え、酢飯を握りその上に魚の切り身を乗せて提供する方法を考えたのです。それが握り寿司です。この握り寿司は、東京湾から獲れる新鮮な海産物と酢、さらに江戸時代から千葉県の銚子一帯で醤油が開発されそれが比較的容易に手に入れられたことから生まれた産物なのです。

華屋与兵衛とは

このような江戸前寿司を考案した華屋与兵衛は福井県の出身であるとされています。幼少期に江戸の蔵前で奉公に入り、その後いくつか職を転々とする中で上述の握り寿司を考案したと言われているのです。与兵衛は19世紀初頭、東京都墨田区本所付近で握り寿司の屋台を開いたところそれが評判となり、その後墨田区両国に「与兵衛ずし」という小さな店を構えるようになります。江戸には、百万人の人が住んでいたとされていますがそれ以外にも各藩の大名屋敷が立ち並び、自分の国に帰っては江戸前寿司を食べられないという武士が多くおり大変な評判となりました。

与兵衛の寿司は幕府の高官や富裕層に食べられ、庶民の口に入ることは多くはありませんでした。そんな中、老中水野忠邦の天保の改革で贅沢禁止、質素・倹約が命じられると高級な寿司ネタを扱う与兵衛の寿司は弾圧の対象となり与兵衛は手鎖の刑に処されてしまうのです。しかしその後、時代を経て21世紀に入ってもレストランに与兵衛の名が使われるなど、与兵衛の残した功績はとても大きいのです。

関西と関東の寿司の違い

関西と関東ではしばしば、出汁に使われる材料など食文化にも違いが見られます。例えば、うどんや雑煮などです。実は寿司もその一つで、それぞれ違いがあるのです。まず、関西の寿司について見ていきます。上述の通り、寿司は平安時代に日本に伝わったとされていますが、その作り方は魚を発酵させて作るため保存性に優れている反面時間がかかるものでした。その一方で関東の寿司は保存性はそこまで重視せず、すぐに作れてすぐに食べられることを重視したのです。つまり、関西の寿司は関東とは違い発酵しているという特徴があるのです。

次に、シャリやネタについて見ていきます。関西の寿司は保存性を重視したことからシャリが乾燥しないようにと砂糖を多く使うため、関東に比べシャリが甘いものが多いです。一方で、関東ではネタに甘めのタレを塗ることが多いためシャリ自体は比較的あっさりとしています。また、関西のネタは瀬戸内海で漁獲した白身魚をそのままネタとすることが多い一方で、関東のネタはマグロの漬けや昆布締めなど、ネタに一手間加える傾向にあるのです。

東京都の海で獲れた海産物を使った江戸前寿司は、江戸時代に華屋与兵衛によって考案された

このように、東京都の海で獲れた海産物をネタにした江戸前寿司は江戸時代に華屋与兵衛によって考案されました。東京で生まれた江戸前寿司は、関東はもちろん関西でもそれぞれ違いはありますが時代を経ても多くの人に食べられているのです。

ザ・ご当地検定の問題

Q. 「江戸前寿司」の考案者とされる、江戸時代の料理人は?

A. 華屋与兵衛