どら焼山は、特徴的な長野県の銘菓どら焼きです。甘さ控えめのあんには、厳選された材料が使われ、徳川将軍に献上されていたという「小布施栗」が使われています。まさにセレブリティなどら焼山なのです。
どら焼山の栗へのこだわりとは
どら焼山の栗あんには、蜜漬栗を粗く刻んだものが入っています。蜜漬栗は今でも手作業でつくられています。栗の鬼皮、渋皮をひとひとつ丁寧に包丁で剥く作業は、根気とコツのいる作業です。栗の選別にもこだわり、栗の仕込みにもこだわり、丁寧に仕上げられた栗は蜜漬けとなり出番を待つわけです。
徳川三大果の一つだった小布施栗とは
小布施栗は、長野県長野市に隣接する、静かな小布施町で栽培されています。室町時代に栽培が始まったといわれており、肥沃で酸性の土壌であったことや、昼夜の気温差の激しい気候などから、大粒で艶のある栗が収穫されます。一説には、弘法大師空海が全国を旅していた時、この地を訪れ「小布施」と名付け、栗を3粒蒔いたものから始まったともいわれています。
徳川将軍に献上していたという小布施栗は、徳川幕府の厳しい管理下におかれ、持ち出しが監視されていました。別名で、栗は「御留め栗(おとめくり)」と呼ばれ、栗林は「留め林(とめばやし)」と呼ばれるほど、出荷は幕府が許可を出すまで地主でさえ持ち出すことが出来ませんでした。「徳川三大果」の一つとして、徳川将軍に愛されていたことがうかがい知れます。
因みに「徳川三大果」とは、紀州のみかん、甲州ぶどう、信州小布施栗だったそうです。
栗と北斎と花のまち小布施町
信州長野県の小布施町には、葛飾北斎や小林一茶など、様々な文人墨客が訪れました。北斎と一茶の作品が見られる観光スポットがあります。岩松院は小布施町雁田にあり、1472年に建立された由緒ある寺院です。小布施駅からは徒歩で30分の場所にあります。葛飾北斎の「大鳳凰図」別名「八方睨みの鳳凰図」があり、小林一茶ゆかりの寺院でもあります。葛飾北斎は83歳の時初めて小布施を訪れました。4度目の滞在の時に、約1年をかけて岩松院本堂の中央(大間)の天井に鳳凰図を描きました。北斎が88歳から89歳の時の作品といわれています。大きさは圧巻の畳21枚分あり、160年たった今でも色鮮やかに保たれています。絵具には孔雀石、鶏冠石の高価な鉱石が使われていて、月日の経過にも色あせることが無いのだそうです。北斎は翌年江戸に戻り90歳の生涯を終えたそうです。
俳人小林一茶が詠んだ句「やせ蛙負けるな一茶是にあり」の舞台となった場所もここ岩松院にあります。本堂の裏庭には、「蛙合戦の池」があり、池のほとりには一茶直筆の句碑が建っています。寺院の周りは静かな山間となっており、今でもこの池に蛙が来ては合戦をしているそうです。寺院には他に、豊臣秀吉の重臣であった福島正則公の遺骨が埋葬されています。
フローラルガーデンおぶせには、葛飾北斎が描いた大鳳凰図をモチーフにした「鳳凰花壇」があります。たくさんの花を組み合わせて作られています。ガーデンが一望できる「出会いのフロアー」もあります。おぶせオープンガーデンとは、小布施町が「花を介した人と人との交流を深め豊かな生活文化を築く」事業として、2000年に始められたものです。一般の家庭でそれぞれ手入れをした庭を公開し、訪れる人との交流の輪をつなげています。おぶせガーデン一覧があり、季節ごとに見どころのある家庭の庭を知ることが出来ます。一覧表には、番号と名前が記載されている他、メインタイトルとしてそれぞれのテーマが記載されているのでマップとしても利用できます。
長野県でどら焼山の栗あんから始まる歴史巡り
長野県の銘菓どら焼山に使われている栗から、小布施を知ることになります。小布施から、葛飾北斎と小林一茶の歴史に残る芸術文学に触れることになります。「なにもない田舎でできること」と家庭の庭を公開してくれている小布施町は「栗と北斎と花」の町です。
ザ・ご当地検定の問題
Q. 長野県の名物菓子「どら焼山」は、どんな餡を使った料理?
A.栗あん
Q. 葛飾北斎の「八方睨み鳳凰図」がある、長野県の小布施町の寺院は?
A.岩松院