因島には、瀬戸内海の魚介類と海草をふんだんに使った、その昔、歴史上でも有名なある一族が食べたという鍋があります。どんな鍋でしょうか?
必勝祈願と士気を鼓舞するために食べた鍋
水軍鍋はタコ、ワタリガニ、えび、鯛、しゃこ、かさご、サザエ、アナゴ、牡蠣、はまぐりなどのたくさんの魚介類と海藻類、野菜を昆布などのダシで似た鍋料理です。室町時代から戦国にかけて因島を本拠地に瀬戸内海を舞台として活躍した村上水軍が、必勝祈願と士気を鼓舞するために食べたといわれています。
タコは「八方の敵を喰う」という意味で、必ず入れられたと伝えられています。瀬戸内の早い潮流で揉まれ、引き締まった身をもつタコはしっかりした歯応えが特徴で、たんぱく質やビタミン、タウリンも豊富に含まれています。カニやエビ、牡蠣などのうまみが凝縮され、濃厚なスープは口に含むとコクと甘みが広がり、シメには鍋に麦飯を入れて雑炊で食べるのが水軍流と言われています。
水軍鍋を食べていた村上海賊(村上水軍)って?
村上海賊(村上水軍)とは、室町時代から戦国時代にかけて芸予諸島を中心に活動した一族です。現在の広島県尾道市の因島、今治市の能島、来島を本拠地とした三家に分かれ、時には連携し、時には離反して互いに戦いながら、瀬戸内海のほぼ全域を支配しました。芸予諸島は多くの島々で成り立っており、島の間では激しい潮流が流れ海の難所と呼ばれていました。また、瀬戸内海の中央に位置しているので、大阪や九州などで船で向かうには必ず通らなければならない場所でもありました。こういった場所を支配することにより、瀬戸内海全体の海上交通を支配していたのです。
現在では「海賊」という言葉は、船や沿岸地域から金品・物資などを強奪する人々を指します。しかし、因島村上氏が活躍していた頃は海を拠点に活動し、船が通行料の支払いを渋ったならば、強奪することもあったようですが、普段は札浦(通航する船から通行料を徴収する港)で通行料を徴収し、瀬戸内海の各地域との交渉をしたりと、水先案内人としても活動していました。また、中国などの海外の国々とも交易を行い、平時は漁業に従事しており「海とともに生きる人々」だったと言えるでしょう。
このように、現在の海賊はいわゆる「パイレーツ」を意味する言葉と当時の海賊は意味が違ってたのです。この「海賊」という言葉は戦国時代から言われており、日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは村上海賊を「日本最大の海賊」と称しました。
「水軍鍋」の元となった「水軍」という言葉は、村上海賊の一つの側面を表しています。水軍とは軍事勢力として、毛利氏や小早川氏、室町幕府の軍事勢力の一つとして戦っていた時など村上氏が他の勢力に属していた場合を指しています。
はっさく発祥の地・因島
温暖な気候から柑橘類が生育しやすい自然条件が整っている因島では、捨てられた種から発生した実生が自然交配を繰り返して、はっさくのような「雑柑」といわれる柑橘が多く誕生しました。そのような環境で、はっさくは江戸時代に因島の恵日山浄土寺で発見されました。発見されたのは江戸時代ですが「はっさく」と呼ばれるようになったのは、明治時代になってから。八朔(旧暦8月1日、現在の9月20日頃)から食べられたからと言われています。
はじめは因島近辺のみ食べられていたはっさくですが、昭和に入ると出荷組合が設立され徐々に全国各地へと広まっていき、庶民の味として親しまれています。因島では新鮮なはっさくの果実がたっぷり入った「はっさくゼリー」や、甘酸っぱいはっさくの果実と白あんがマッチした「はっさく大福」をはじめ、お菓子やお酒に加工されてお土産にも大人気となっています。
ザ・ご当地検定の問題
Q. 広島県の因島などで食べられる、瀬戸内海の魚介類と海藻を昆布ダシで煮込んだ鍋は?
A. 水軍鍋